第2章
1、
翌日、民喜は大学の授業をすべて欠席した。体が重く、布団から起き上がる気力が湧いてこなかった。まるで自分の内にあるすべてのエネルギーを使い果たしてしまったかのようだった。
布団の中に潜り込んで延々と眠り続け、ようやく起き上がった頃には窓の外は薄暗くなっていた。
時計を見る。夕方の5時前。いったい何時間寝てしまったのだろう? 布団から起き上がったまま、しばし茫然とする。
何とかしてコーラス部の練習にだけは出ようと思い、民喜は布団から這い出した。とりあえずお湯を沸かして、インスタントのコーヒーを淹れる。体は依然として重く、頭もぼんやりとしていてできるなら練習には行きたくない。しかし、秋の定演があと5日後に迫って来ていた。
熱いコーヒーを急いで飲み干し、民喜はアパートを出た。
クラブ活動室のある西棟に向かう間、民喜は同じ授業を受けている誰かとばったりと出くわさないか、気が気ではなかった。
人と顔を合わせないよう気を付けつつ、早足で薄暗い構内を歩いてゆく。校舎の窓には点々と明かりがともっている。歩きながら、どこかから誰かに見られているような気もしてきて、落ち着かない。
前方のチャペルにも明かりがともっているのが見える。聖歌隊が練習に使っているのかもしれない。
民喜は普段、学内のチャペルに足を踏み入れることはない。毎週水曜日の昼に学生を対象とした礼拝は行われているだが、自由参加なのをいいことにまったく参加はしていなかった。
礼拝堂から漏れ出る明かりを眺めつつ、西棟へと急ぐ。
そう言えば1年生の時に一度だけ、山口凌空に誘われて昼の礼拝に参加したことがあった。
正面に設置された立派なパイプオルガンの音色は確かに素晴らしかった。厳かで良い雰囲気だとは思ったが、礼拝中、ソワソワとして落ち着かなかった。何だか自分一人だけが、この場から浮き上がってしまっているような気がした。
そもそも、キリスト教の神に向かって祈るということがどういうことなのか、いまいちよく分からない。祈祷の最後に皆で「アーメン」を唱えることにも抵抗があった。
礼拝に参加したその日、隣に座る山口の様子をそっと伺っていると、彼も祈祷の最後の「アーメン」を言わなかった。「アーメン」を唱えないのは自分だけではないことを知り、民喜は少しホッとした。
そうだ、そう言えばその日、数列前の席に明日香さんが座っていたのだ。この頃から、すでに自分は彼女のことを大切に思っていたことに改めて気づく。
礼拝堂から顔を背けるようにして、その横を通り過ぎる。
でもやはりここの学生である以上、たまには礼拝にも顔を出した方がいいのだろうか……?
普段はまったく気に留めていないことが、なぜだか今日はひどく後ろめたく感じられた。
もうすぐ西棟に着くというとき、背後から、
「……出てない」
という声が聞こえた。
ギクッとして、立ち止まる。恐る恐る周囲を見回したが、近くには誰もいなかった。
「さぼってる」
背後の暗がりの辺りからまた声がした。
ハッとして振り返る。自分の後方には誰も歩いていない。でもいま、確かに声が聞こえた。
頭から血の気がひき、動悸がしてくる。
民喜は逃げるようにして建物の中に入った。
今の声は何だったんだ?
階段の手すりにつかまり、気持ちを落ち着かせようとするが、足腰に力が入らない。
誰かが自分に当てつけでそう言って逃げ去っていったのだろうか? でも、何のために?
一体何が起こっているのか、よく分からなかった。
もしかして、自分が授業やチャペル礼拝に出席していないことはすでに大学中に知れ渡っているのかもしれない、と思う。
部員たちに会うのが何だか怖くなったが、民喜は勇気を出してゆっくりと階段を上って行った。313号室のドアをそっと開け、中を覗く。教室はすでに授業を終えた部員で賑わっていた。
民喜はすがるような想いで、明日香の姿を探した。明日香は後ろの方の席に座って楽譜を眺めていた。
民喜は気配を消しながら教室の中に入り、壁際を伝って明日香のもとへ近づいていった。
「昨日はありがとう」
小声で声をかける。淡いピンクのカーディガンを着た彼女は顔を上げ、
「あっ、民喜君、こちらこそありがとう」
恥ずかしそうな表情で微笑んだ。
明日香の柔らかな微笑みと唇の隙間から覗く八重歯を見て微かにホッとする。
彼女と二人きりで映画を観に行ったことは部員には知られたくなかったので、礼だけを伝えて民喜はすぐにその場を離れた。
練習を終えて自分のアパートに戻ると、民喜はコンビニの弁当を開封するより先にビールを飲み始めた。大学の構内で聞こえた誰かからの悪口は、民喜の心に棘のように刺さり続けていた。
(出てない)
(さぼってる)――
まるで微弱な毒が注入されたかのように心のどこかがしびれている。そのせいで全身から力が奪われてしまっているかのように感じる。
1本目を一気に飲み終えた民喜は、2本目を取りに冷蔵庫に向かった。急速に酔いが回ってきて、頭がクラクラする。今日一日何も食べていないところにいきなりビールを一気飲みしたのだから、それはそうなるだろう。
冷蔵庫を閉めたとき、扉に貼っている母の手書きのレシピが目に留まった。思わず足もとの段ボール箱に視線を落とす。段ボールの中には母が送ってくれたお米、リンゴ、その他の大量の野菜が入っていた。
この10日ほどの間、料理をしたのは結局一度きり、オクラ入りカレーを作ったあのときだけだった。他の野菜は料理しないまま、冷蔵庫に入れることもしないまま段ボールの中に放置しっぱなしになっていた。
民喜は缶ビールを床に置き、箱の中からレンコンを1本取り出してみた。ところどころ黒く変色し、微かにプンと酸っぱい匂いがした。
胸にチクリと痛みが走る。母の心配そうな顔が瞼の裏に浮かんでくる。
リンゴやジャガイモなどはまだ食べられそうだった。母に申し訳ないと思いつつも、それらを手に取って料理をしようという気力はいまは湧いてこない。
母の手紙の言葉を思い起こす。なるべく自炊をするように。食品は色んな種類をまんべんなく食べるように。野菜や魚を買う際は念のため産地も確認するように……。
自分は何一つ実行することができていなかった。酸っぱい匂いのレンコンをゆっくりとまた箱の中に戻す。
酔っ払った頭で民喜はふと、
「自分はそもそも、健康に気を遣うに値する人間なのだろうか」
と思った。
母は免疫力を高めるためのレシピをたくさん自分に送ってくれた。放射能の影響を気にかけて――。
しかし、そこまでして放射能の影響を気にかけなければならない理由が自分にはあるのだろうか? その努力をこれから何年も、何十年も続けてゆく必要があるほど、自分は価値ある人間なのだろうか?
民喜にはそうは思えなかった。
自分がそれほどまでに大切な存在だとは思えなかった。
(俺らホモ・サピエンスそのものが、はじめから生まれて来ない方がよかったんじゃねえか)――
缶ビールを手に、ヨロヨロと立ち上がる。リビングの床にあぐらをかいて座り、まだ食べていなかったコンビニ弁当を開封する。
(出てない)
(さぼってる)――
またあの悪口が耳元によみがえってきた。
味気のないから揚げをほおばりながら、民喜は心の中で、
「母さん、ごめん」
と呟き続けた。