4、
青色の服を着た中年の男性が落ち着いた口調で話をしている。※
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「……この点についてはご安心いただければと思います」
「……外で活動したらただちに危険であるという数値ではありません」
避難所に置かれたテレビを食い入るように見つめていた父は、深く息を吐き、
「よかった……」
と呟いた。
周囲にいた大人たちもホッとした表情で、
「20キロから30キロ圏内でも直ちに健康に影響はないそうだ」
「大丈夫だそうだ」
とささやきあっている。
脱力したようにしばらく頭を垂れていた父は顔を上げて、
「晶子、とりあえず、一安心だ」
母に話しかけた。疲れ切った表情をしていたが、緩んだ父の口元には深い安堵の想いが浮かんでいる。父の様子を見て、民喜もようやくホッとした気持ちを取り戻した。
しかし母の方を見ると、母は口を堅く結んで、張り詰めた表情をしたままだった。母は父ではなく別の方を見つめていた。
瞬間、民喜は何か胸騒ぎのようなものを感じた。
母は黙ったまま、ウトウトとしている咲喜を胸に抱き寄せた。何だか母だけが、その場の雰囲気と隔絶されているように感じる……。
…………
突如として意識の表層によみがえってきた光景に民喜は衝撃を受けた。
思わず布団の上に座り込む。動悸と一緒に、強い不安が込み上がってくる。
コーラス部の練習を終えて帰宅し、ぼんやりとネットニュースを眺めていた民喜に、また事故直後の記憶が襲い掛かってきた。それは原発事故が起きてから5日後の避難所での記憶だった。
「お父さんと離婚してでも、あなたたちを連れて静岡に避難すればよかった」――
ネットニュースを読むともなしに眺めつつ、先日の電話での母の言葉を思い起こしていたら、いきなりこの避難所での記憶が意識に侵入してきたのだ。
何なんだ……?
あまりの不安感に息が苦しくなってくる。
民喜は胸の上に手を当て、ゆっくりと呼吸をして何とか自身を落ち着かせようとした。ここは避難所ではなく、アパートの一室であることを自分に言い聞かせる。
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「……この点についてはご安心いただければと思います」
「……外で活動したらただちに危険であるという数値ではありません」
テレビの中の男性の声が頭の中でグルグルと廻り始める。
画面を食い入るように見つめていた父は、
「晶子、とりあえず、一安心だ」
安堵した表情を母に向けた。しかし、母は口を堅い表情のまま、別の方向を見つめていた。
父ではなく、別の方を見つめている母の姿を見たとき――。民喜は胸騒ぎのようなものを感じた。
自分は予感をしていたのかもしれない。これから先、自分たちの身に何か悲惨なことが起こることを。
「直ちに人体に影響を与える数値ではない……」
「晶子、とりあえず、一安心だ」
思えば、あの瞬間が分岐点だったのかもしれない。悲惨なすれ違いの始まりだったのかもしれない。自分たち家族において。そして多分、この国においても……。
「お父さんと離婚してでも、あなたたちを連れて静岡に避難すればよかった」――
民喜がこれまで最も恐れて来た言葉。それが「離婚」という二文字だった。
この言葉が現実となることから目を背けるために、自分は福島を離れ、はるばる東京までやってきたような気もする。
民喜は立ち上がり、部屋の中をウロウロ歩き回った。今度は「離婚」という言葉が頭の中を駆け巡る。
そう言えば、先日の電話の最後に、母は気がかりなことを口にしていた。
「これから先のことについては、また近々、民喜にも相談するわ」
「先のこと……?」
「うん……。これから先、来年からのこと」
母は言葉を濁してそれ以上は答えなかった。
「先のこと……」
民喜は胸の内で何度も呟いた。
もしかして母さんは、咲喜を連れて静岡に避難するつもりなんじゃないか?
民喜はハッとして立ち止まった。
父さんはどうなる? 一緒に行くのか? いや、それは難しいだろう。じゃあ、別居か? いや、まさか離婚するつもりなのでは――。
「あっ!」
民喜は思わず大声を出した。
「あーっ!」
「離婚」という言葉がさらに激しい勢いで頭の中をグルグルと駆け回る――今までになく、現実味を帯びた言葉として。
民喜はスマホを手に取って、外に飛び出した。頭の中がどうにかなってしまいそうだった。
目的地も定めず早足で、細い路地を歩き続ける。
「まさか……本当に……。ひょっとして……」
呻くように独り言を呟きながら歩いている内に、広い通りに出た。いつも通学路として使っている道路だった。
気が付くと、民喜の足は大学の方へと向かっていた。
※2011年3月16日午後6時前に行われた枝野幸男官房長官(当時)の記者会見。