第4章
1、
波の音が聞こえてくる。砂浜に押し寄せ、引いてゆく波の音……。
波打ち際の方から、海水浴をする人々の声も聞こえる。子どもたちの笑い声が弾ける。
民喜は白い砂浜の上を歩いていた。湿った柔らかな砂の感覚を足の裏で確かめつつ、一歩一歩歩いてゆく。波の音が民喜の全身を包み込む。
顔を上げると、真正面にロウソク岩が立っていた。頂上に松の木を生やしたロウソク岩が、いつものように浅瀬に佇んでいる。
「民喜」
すぐ後ろで、懐かしい声がした。少し甲高い、ひょうきんな感じがするあの声……。振り向くと、満面の笑みを浮かべて祖父の民治が立っていた。
「じいちゃん!」
民喜は駆け寄って、祖父の手を握った。祖父は一重瞼の細い目をいよいよ細くさせて民喜に笑いかけた。いつもの青いちゃんちゃんこを羽織る祖父の後ろには、エプロンをつけた祖母の多恵子も立っていた。
「ばあちゃんも……」
祖父と祖母の間に立って、干潮の海岸をゆっくりと歩いてゆく。民喜はいつしか幼い頃の自分に戻っていた。
ロウソク岩とその背後に広がる群青の海を見つめる。頭上からカモメの一群の鳴き声が聞こえてくる。潮の香りに交じって、祖父のあの独特の匂いが漂ってくる。民喜はすっかり安心して、
「じいちゃん」
祖父の顔を見上げた。
「どうした」
「僕、怖い夢見てた」
「そうか」
祖父は頷き、祖母と顔を見合わせた。そして身を屈ませて民喜の目をジッと覗き込み、
「大丈夫だ。じいちゃんたちが見てっから」
勢いよくクシャクシャと民喜の髪を撫でた。
「うん」
民喜は笑って頷いた。パッと祖父の手を離し、ロウソク岩に向かって勢いよく走り出す。10メートルほど走って振り返ると、祖父と祖母が微笑みながら自分を見守っていた。
ふふふっ。
民喜は笑い声を立て、砂浜に背中からパタンと倒れ込んだ。頭上に雲一つない真っ青な空が広がる。祖父と祖母はゆっくりと近づいてきて、民喜の両隣に腰を下ろした。
民喜は目を瞑った。
打ち寄せては引いてゆく波の音を聞いている内に、だんだんと眠たくなってくる。次第に耳元から波の音が遠のいてゆく。波の音が青い空の中に沁み込んで、消えてゆく……。……
目を開けると、咲喜が自分の顔を覗き込んでいた。
「お兄ちゃん!」
咲喜は立ち上がり、
「お母さん、お父さん! お兄ちゃん、起きたよ!」
すると母の晶子が駆け寄って来て、
「民喜!」
民喜の手を強く握った。
「民喜……分かる?」
民喜が頷くと、母は目に涙を浮かべながらウンウンと頷き返した。
民喜は首を起こして周囲を見回した。どうやら自分はベッドの上に横たわっているようだった。あの浜の光景がまだ脳裏に残り続けている。耳元には波の音がざわめき、両隣にはいまも祖父と祖母が座っているような気がする……。
起き上がろうとした瞬間、軽い眩暈を感じた。
「大丈夫、そのまま、寝てて」
耳元で母がささやいた。民喜は顔だけ上げて、
「眼鏡ある?」
「あるよ、はい」
咲喜が取って渡してくれた。民喜は眼鏡をかけ、
「ここ、どこ?」
焦点が合わぬまま、せわしなく目をキョロキョロと動かした。
「病院よ」
そう言われてみれば確かに、ここは病院の一室のようだ。ベッドの左側には点滴装置が置かれている。左腕には点滴の針とチューブが取り付けられていた。
「なして?」
母は質問には答えず、民喜の右手をギュッと握って頷いた。
「民喜、分かるか」
ボソッと低い声がする。見ると、母の後ろにスーツ姿の父の民夫が立っていた。
「父さん?」
なぜ父がここにいるのかよく理解できないまま、頷く。一体どうして病院に自分がいるのだろう? どうしてみんな、ここにいるのだろう……?
記憶の糸を手繰り寄せようとするが、頭がぼんやりとして思い出すことができない。けれども、過去の記憶を遡ろうとしている内に、何か暗い雲のようなものが民喜の心をよぎった。民喜はハッとして、
「咲喜、大丈夫だったか?」
ベッドの右側の椅子に座る咲喜の顔を見つめた。
「うん、大丈夫だよ」
咲喜は頷いた。咲喜もそのぱっちりとした目に涙を浮かべていた。父が手を伸ばして咲喜の肩を抱いた。
民喜はフーっと息を吐き、
「そうか、良かった」
と呟いた。
「民喜、ごめんね……」
母は涙を流していた。なぜ母が泣いているのか、なぜ自分に謝っているのか、よく分からない。
父が母に何かささやいて、病室から出て行った。鼻をすする母に咲喜がティッシュを手渡す。母はティッシュを受け取り、
「ありがと」
小声で呟いて鼻をかんだ。
すぐに父はまた病室に戻って来た。父の後ろに誰かいると思って見てみると、将人と駿だった。
「おう、民喜、起きたか。大変だったなー」
いつもの人懐っこい笑顔を浮かべて将人が言った。
「将人、駿! なしてここに?」
民喜は思わず上半身を起こした。母は病室の隅から椅子を持ってきて、二人に座るよう勧めた。
「すいません」
将人と駿は礼を言って椅子に腰かけた。
「民喜んとこ行くって、約束したべ」
将人がそう言うと、隣の駿も頷いた。日焼けをした将人に比べて駿は相変わらず色が白かった。民喜はぼんやりとする頭を懸命に働かせ、
「したっけ……今日は土曜日か」
と呟いた。
「んだ」
二人は頷いて、ホッとしたような笑顔を浮かべた。
「体調はどうだ?」
駿の問いに、
「うん……ちょっと、頭がぼんやりする」
「お薬の影響もあると思うわ」
咲喜の後ろに立つ母が言った。
「薬?」
「うん」
母が頷く。
「いま何時?」
駿はスマホを取り出し、
「えーと、2時ちょっと過ぎだな」
「昼の?」
「当たり前だろ」
将人が笑って突っ込んだ。
「で、なして俺が病院にいるの?」
将人は笑顔のままで、
「まあ、理由はあとでゆっくり説明するから。もうしばらく、ゆっくり休んでろ」
何だか腑に落ちないままに、民喜は頷いた。頭がクラクラとしてきたので、
「ごめん、ちょっと横になっててもいい?」
「もちろん、無理すんな」
ベッドに横になろうとすると、駿が手を伸ばして背中を支えてくれた。横になると少し体が楽になった。
「午前中、大学のお友達もお見舞いに来てくれたわよ」
母の声がした。
「友達?」
「10時頃に山口君が来てくれて、11時半頃に永井さんが来てくれたわよ」
「山口……山口凌空? 永井さんって……。えっ、永井明日香さん?」
民喜は顔を上げて母の方を見た。
「うん。でも民喜、ぐっすり寝てたから。山口君も永井さんも、民喜によろしく伝えてくださいって言って帰られたわ」
母の口から突然明日香の名前が出たので、民喜は動揺してしまった。
「民喜、残念だったなー。せっかく明日香ちゃんがお見舞いに来てくれたのに」
将人がニヤニヤして言った。
「え、何が?」
将人から目を逸らしてはぐらかそうとすると、
「お兄ちゃん、残念だったねー」
咲喜も言った。
「え、何?」
「さっき、将人君から聞いちゃった」
「え、だから何を!」
一瞬の間の後、皆が笑い声を上げた。父は困ったような顔で笑い、母も涙ぐんだ目で笑っている。笑っている皆を見て民喜も、
「ふふふっ」
と笑ってしまった。
ベッドの右側に咲喜と母、その後ろには父。ベッドの左側には将人と駿。みんなが一堂に会して、微笑みながら自分を見つめている――。何だか不思議な気がした。不思議だけれども、胸の内に深い安堵の想いが込み上がって来る。
きっといまも、自分は夢を見ているのだろう、と思う。いま目の前にある光景も、さっきの夢の続きで……。
でも、こんな夢を見たいと、ずっと願って来た気がする。ずっと、この数年間――。みんなすぐそばにいて、一緒に肩を寄せ合って――。
民喜の脳裏に、ランタンを皆で囲んでいる光景が浮かび上がってきた。
あの夜、避難所の体育館の中は真っ暗だった。父が家から持ってきたランタンに火を灯すと、暖かな光が民喜たちを照らし出した。父は黙ったまま手を伸ばして、民喜と咲喜と母の肩を抱いた。
不安だけど、あったかい。
暗いんだけど、あったかい……。
いつの間にか、あかりの周りに人が集まって来ている。すぐ近くには、駿と将人の家族もいる。
「オトナの人たちに怒られるかもしれないけど、わたしあの時、嬉しかった。楽しかったし、嬉しかった。ロウソク囲んで、みんなでギュッとひっついて……」――
咲喜の声がよみがえってくる。
「わたし、そのときのこと、ずっと忘れてないよ。ずっと覚えてる」――
妹の言葉を胸の内で繰り返しながら、民喜は目を閉じた。目から一筋の涙がこぼれ落ちた。……
どこかから、波の音が聞こえてくる。打ち寄せては返す、波の音……。抗いがたい眠気が襲ってくる。
この暖かな時間をもっと味わっていたい、と思ったが、眠気は容赦なく民喜の意識を沖の方へとさらっていった。